昭和四十八年九月七日
X御理解 第四十八節   「信心は相縁、奇縁」



信心で申します相縁、奇縁とーーーこれは奇縁、相縁、と言った方がよいかも知れません奇縁が出来る不思議な縁ができる、不思議な縁が出来たと言うだけでは信心は、信心はそれは相縁になってやかない。只奇縁があったと言うだけでは、相縁段々縁が深くなって、そしてそこから幸せを頂いて行くと言う縁でなからなければならない、いうならばこれが人間と人間であるならば、アバタもエクボと言う、その人の欠点ですから好いように見えてくる様にならなければ相縁と言う事にはならない。
合楽に御神縁を頂いてあちらこちらで言わば、御神縁を頂いとらん方達が何かの縁で合楽にお参りしてくる、それでおかげを受けて、段々合楽の信心の素晴らしいと言う事でなくて、何となく合楽の信心が意味をもって来て、合楽の親先生の言われる事がそのまま有難く頂けると言う。親先生の信心がどうであっても、言うならアバタもエクボニ見えてくるようになる。そこから私は本当のおかげになって来る様におもう、例えば親先生からなら騙かされたっちゃよか、親先生の言われる通りのことをして、右になるわ左になるは、 事は言うならお任せしきった人の事であって、信じておるからと言う様に、それが私はおかげの元になり、それがお徳を受ける様になるとこう思う。
合楽の方達は皆そうだとこう思うです、けれどもやはりそこに何とはなしに、自分の信心が合楽の信心にぴったりしていると、から信心が段々に合楽の信者としておかげ頂くようになったと。
昨日熊谷さんの例をとりました、熊谷さんもある教会で熱心な総代的地位をしとられました。偶偶唐島のお母さんが当時の樺目にお参りして、そして一遍とにかく樺目の先生のお話を聞いて見れと、あまり言われるもんだから模様見にきたのが始まりであった、それが奇縁である、それからお話を頂けば頂く程、これはこれが方が本なこつ、これは樺目の言いなさるのが本なこつと言う事がわかってきた。そして二十何年間、もうねえ樺目時代から合楽への信心を続けられて婦人の総代までなさるようになって、そして昨日申しますような本当に我ながら、我が心が拝みたいような心が育って来た。
これが私は本当の信心で言う相縁、奇縁だと思う、ね、不思議な縁、これがその教会に居ったと言う事でなくてもです、ここに縁を受けるまでには、様々の神様の働きが不思議な縁と言う事になってくる。
だからその不思議な縁が出来ただけでは何もならん、それが段々育って来て、相縁、切ろうにも切れないそれには、例えばお願いしてもお願いしても、右とねがえば左、左とねがえば右と言った時代も、熊谷さんの場合にもある、御長男の則郎さんも大学受験があるからと、とにかく初めの間は、もうこの人が大学受験の出来るまでを、お日参りとこう決め手、三年間でした、もう出来ん方が不思議と言う位に、皆が認めておる程、頭の良い人なんですけれども、どうも出来ない一年間通うておる内にです、段々所謂相縁が生まれて来た、それは本当に不思議な縁です。        ───────────────────────────────
昨日一昨日博多からお参りして来た人ももう半年ばかり前に、一回参ってきたそれも大変な問題であった、その方もある教会に御縁を頂いて、大変まあ女ながらも男のような気性の方らしい、アパートか何かもっとられたのを、うられて一千万程のお金が入って来た、それでその教会先生が普請を思いたつから、あんたの一千万円を立て替えとかんかと、もう神様の言われる事だからと思ってから、立て替えたそれが問題、それから遂にその教会の先生と喧嘩して、とうとう信心を止めた、とこう言う方なんです。
けどやっぱり何かと言えば家にやっぱり神様をお祭りしているから、家では一生懸命拝んでおるけれども、教会にはもう参らんと、その問題のこじれたことを、が縁で何方のお手引きだったか知らんお参りしてきた、それが本当に有難いおかげを頂かれた、でもいろんなお伺いごとやら電話で、お伺いをなさる、そして一昨日また参ってきた。
それは従業員の方は未だ若い、二十五才のでしたけれども、結婚をされるそれで行こう、貰おうとなったところが、ところがそれはけっこん詐欺のそれであった、結婚詐欺と言うよりは暴力団の手先であった。
女の人がそれでその、貰われんごとなったら、百五十万円その金を要求される、しかもそれがその時に三人四人やってくるもんですからもう奮え上がってしまって、大変な先生問題が起きてから、実はこうこうだと言うて参って見えた。それでその時にお二人のお届けをさして頂いて、二十五才の若い青年の方が、まあ言うなら牛に引かれて善光寺参りに参って来たけれども、本当にもうこげん安心した事はないと言う意味の事を言われてですね、参って来てから、こう言う神様の居られたと言う事を、僕のこれからのまた生涯です、
有難い道が開けるだろうと言う意味のことをいって、喜んで帰った。
と言うのがその昨日が向こうの遊び人のような人達と、こちらの親戚の人達が代表三四人で会う事になっとる、それで昨日決まることになっとる。
一昨日ですから、それに私がお知らせを頂きますのに、お宮さんの灯籠に火を灯すところを頂いた。ですから真っ暗いところに、それこそ明日はどうするだろうかと言う気持ちがね、お取り次ぎを頂くと言う事は、暗いところに火を点ずるようなものだと言う事、お取り次ぎを頂くと言う事は、だからその二人の事じゃないけれども、もうこれで先生安心致しましたと、これで私は明日はもう心配はいらんよ安心しておいでなさい。
初めの間はちったごちゃごちゃ言うかも知れないけれども、結果的にはおかげになるから、安心しておいでなさいと言う事頂いて、もう本当に安心して、安心してでなくして喜んで帰った、そこからです。こう言う神様に縁を頂いてから、私の生涯が有難いほうに変わってくるだろうと言うて喜んで、帰って行った。
だから昨日の結果をまだ聞いておりませんれりども、おかげを頂いたとお礼に出て来たら、そう言う事が一つ奇縁になって、本当にその人の一生のその人らしいものが、生まれて来ることが相縁になってくる。私はその事は昨晩話した事ですけれどね、例えばお取り次ぎを頂く事は真っ暗いところに光りを灯して頂くようなもんだから、そこでね心配をしとらん者は、安心しておかげが頂ける、これがおかげ頂けるぞと言ったような心とです、 純粋な心で頂かなければね、おかげにはならんです。先生はあげん言いなさったばってん、お取り次ぎはして頂いたけれどもと、光りを灯して下さっても、おかげは頂かれん、ですから如何にこの新たな初心な心と言うものが、大事か、ああおかげ頂いたと言うその心です、が大切です。
これも昨日福岡の田舎の方から、この人も近所の教会にお参りしよるけれども、まあいろんな問題の時だけは、月に何回か参ってくる、娘さんがある青年と交際しておる、なかなかいい青年だから貰われればやっても良い、時分も行って良いと言う仲にまで育っておる 御神意を伺ったら、よいお許しを頂いておる、ところが男の方がえらいおとなしくて、両親にそれを打ち明けきらんでくずくずして、それがさめかかってきた。それをお母さんが心配してお参りしてきた、そしたらちょうど、つつの苗の苗のようなものに、植えたばっかりに如露で水を掛けるところを頂いた。
だからもうお取り次ぎを頂くと言う事は、枯れかかっておる苗に水を掛けるようなもんだから、水さえかけて行きよれば、お願いさえしてゆきよれば、お取り次ぎさえすれば、必ずつがる、花も咲けば、実が稔ると、言う御理解頂いてもう、親先生お参りして御理解頂かなければ安心ができません、そんならほっといてもよい訳ですねと安心して、その安心して帰る心がおかげになるのです。これなんかも最初は奇縁が段々段々もう十年もこのかた、続いておりましょうか、言うならば本当の相縁になってきよる。だから皆さんの場合もそうです、奇縁が段々相縁になって行っておるかと言うことを、思わなければいけません、段々お参りをして所謂自分の思うごとなってくれないけれども、熊谷さんじゃないけれども、願っても願ってもおかげにならん、それが三年後に初めておかげ頂いて、卒業してみて、いえ入学してみて、下宿やらなんやらのことから、卒業してみて初めて、成程三年間遅れた訳が分かった、愈々御神縁の深さに驚く程有難いものが分かられるようになってから、本当の信心が生まれて来る。
所謂相縁になって来る、奇縁が稔った結ばれたら、それがもう本当に私どんが場合はもう腐れ縁だと、言うような人が合楽におるかもしれん、合楽に御縁を頂とったばっかりにと言う人があるかも知れません。けれどもこれは私が申します、お取り次ぎを頂いて、頂くところの純粋度と言うものが、かげておるからだとこう思うのです。      ──────────────────────────────────
昨日杷木ノ市川さんがお参りして来てあります、この杷木の教会の信徒会長までされてある、それでもやっぱりしげしげとここに参ってこられる、そして教会の事も願われ、あちらの信者一同のことも願われる、それが段々合楽の信心に帰依をされるようになって、合楽の信心と今頂いておる教会の上にも、頂こうと言うような意欲でお参りなっとられる。昨日奥さんが手足が揃えられん様に手足が大変痛む病気、学校の元先生だったようです、そうですから、理屈ばっかり言うてから、仲仲信心に心をむけません。
それでもやっぱりお願いしてやらにゃ出来んから、と言うてお願いなさった、本人が頼む気になればおかげになるとおっしゃった、本人が頼む気になればおかげになる、本人が一心に頼めば、おかげになるとおっしやった、一心だとさあ医者じゃ薬じゃと言うとる間はおかげにならん。そこで昨日は最近皆さんに言うとるように、医者ちゃ薬ちゃと言うような、医者に患ってはならんじゃない、さあもうどうもせき殺すごとせく、と言う時には、やはりトンプク的な注射をして、一時とめてもらわにゃどうにもされん時もある。痒いから痒いてもらわにゃどうにもされん時もある。だからそう言う時にはです、合楽の信心をよくよくわからせて貰うと、あれ程自然を大事にする言わば、教えが徹底しよるところはないのですから、それと成り行きそのものを大事にして、自分の心を改める事を第一として行くならば、必ず自然の中におかげが頂けれる。
それをさあ医者だ薬だと言うところに、成程それは医者や薬でおかげ頂いとろうけれどもその医者やら薬やらの自然の治療のどこにか言うならば、薬害と言うもの、薬の害と言うものがどこにか入っておる、ですから医者薬に患っておられるだろうけれども、そのことは祈れ薬れと言う事はお願いとして、医者に行くと言ったような事でなくて、お詫びをして薬を飲むのだよ、医者に患るんだなと私はこの事を分からせて頂くようになって、何人かの人にあーー大変おかげ頂きよるです、薬を飲む医者にかかる、それで中々一心が出らんけれども、そこんところを例えばお詫びさせて頂く気になった、私自身がお取り次ぎさせて頂くときに、不自然な事で御座いますけれども、と言うてお詫びをする気になったら非常に、何人もの病人さんのお取り次ぎをさして頂きよるが、おかげがいちぢるしく見えて来た。
ははこれは祈れ薬れと言う事はやっぱりこれはお詫びをする祈りで、なからないけん、そしてお薬を頂くところから、薬害と言う事になり又はそれが本当に効き出してくる、と言うおかげになると言うことをね、まあこれは余談でしたけれども市川さんあたりの場合でも奇縁が段々相縁となって、自分だけではない教会の上まで縁が結ばれようとしておる。だから今日の相縁、奇縁と言う言葉は大体奇縁が先、奇縁が相縁に育って行かなければならん、只合楽に縁を頂いた一遍誰々さんのお導きで参った事があると言うことのような、ことだけの縁になったり又それが、腐れ縁につながっておると言うような事だけでなくてほんとうの相縁に結ばれていって初めておかげが受けられると思うんです。
信心は相縁、奇縁、愈々自分一人だけの縁だけではない、自分が相縁、奇縁によって結ばれて皆も相縁に育って行く、そこから自分の身内の者やら自分の知った人達の上まで、相縁、が繋がって行く程しのおかげを頂いて、はじめて信心で言う相縁、奇縁と言うのじゃないでしょうかね、 どうぞ。